この言葉は、朝日新聞の「折々のことば(2016年1月21日)」で紹介され初めて知りました。一見するとわかりにくい言葉ですが、鷲田清一さんの解説に妙に惹きつけられ、それ以来、事あるごとに口にしています。
このときの折々のことばは、気仙沼にある「斉吉魚問屋」が発行する「斉吉魚問屋便り(2013年2月付け)」に掲載されたことをもとにしていますが、昔から三陸地方に言い伝えられてきた言葉だそうです。鷲田清一さんの解説には次のように書かれていました。「気仙沼のある魚問屋でのこと。大にぎわいの宴席のこと、下げた食器の山をみてため息をついていると一家の母がこう(目は臆病、手は鬼)言ったという。途方もない量の片づけ仕事を前に怖じけているときも、とりあえず手を動かせば存外すんなり事はなる。震災後、すさまじい瓦礫の山を前にしてボランティアの人たちがこの言葉を立証した。『斉吉魚問屋便り』から」
斉吉魚問屋は、斉吉魚問屋が東日本大震災で破滅的な被害に遭いながらも、大震災後の4月にはすでに新たな便りをブログ上にアップしています。そこには従業員全員が無事だったこと、ただ工場は土台を残すだけで跡形もなかったこと、お客さまからの励ましのメールがたくさん届いたこなどが書かれています。圧巻は次の5月号で、真空パックに入ったまま津波に運ばれた斉吉魚問屋の看板商品であるさんまの佃煮「金のさんま」のたれのもとを、どこまでも続く瓦礫の中から社員2人が探してきたことが書かれています。現在は立派に復活した斉吉魚問屋ですが、このブログを読みこれまでの経過が手に取るようにわかりました。また、他の東日本大震災の被害者の方々の多大な苦労のほども伝わりました。
東日本大震災の傷跡はあまりにも深く、福島原子力発電所の問題、液状化問題などいまだに解決手段さえ見いだせていないことがあります。このような中、「目は臆病、手は鬼」ほど私たちを勇気づけてくれる言葉は見当たらないのではないでしょうか。いつかきっと解決できると思えてきます。
この言葉は、勉強の際にも励ましてくれるでしょう。ぐずぐず考え込むことなく、まずはできることから始めれば、いつの間にか没頭し気が付けば圧倒的な量をこなしていたと言えるようになるかもしれません。三陸地方で犠牲になった方々の弔いとその犠牲を無駄にしないためにも、この言葉を後世にも伝えていきたいものです。